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七ヶ浜町内の指定文化財

種 別 名 称 所 在 地 内 容 指 定 日

松 島 塩竈市、東松島市、松島町、七ヶ浜町、利府町の各沿岸部及び島嶼、丘陵

松島は塩竈市、松島町、七ヶ浜町、利府町、東松島市の2市3町にまたがる、指定面積約12,600haに及ぶ名勝である。約230の大小の島と海岸、マツ林などがつくる風致景観と生活の場、信仰の場、広く日本中に知られた遊覧観光の場としての景観が調和した松島の価値がされている。

大正12(1923)年

3月7日名勝

昭和27(1952)年

11月22日特別名勝

大木囲貝塚

東宮浜字西大木・東大木・南下方

松島湾を代表する縄文時代前期中期を主体とする集落跡で、東北地方中・南部で盛んに製作された「大木式土器(だいぎしきどき)」の名称の由来となった遺跡として知られている。現在も縄文時代前期・中期の貝層が良好に残り、これまでの調査で土器や石器、骨角器など当時の生活道具のほか、貝殻、動物の骨などが出土している。隣接する歴史資料館では大木式土器など出土資料を多数展示している。

昭和43(1968)年

3月18日

国 府 厨 印

境山2丁目

1-12

※歴史資料館寄託管理

明治時代初期に鼻節神社改修の際に発見された、一辺4.1cmの正方形、高さ3.9cmの青銅製の古印。七ヶ浜周辺の海産物などを陸奥国府多賀城へ供給する「厨」が使用した印だと考えられ、陸奥国府と七ヶ浜の関係を考えるうえで貴重な資料である。

昭和46(1971)年

湊浜薬師堂

及び薬師座像

並びに榧の木

湊浜字熊野、字砂山地内

薬師坐像は宮城郡内三薬師の一つで、彫りの特徴から平安時代末期から鎌倉時代初め頃の作と考えられている。江戸時代中期の建造とされる薬師堂は書家佐々木文山の揮毫による扁額がある。境内の北側には幹回り約4.5m、高さ約22mの榧(かや)の大木があり、円仁(慈覚大師)がお手植えしたという言い伝えがある。

昭和56(1981)年

10月1日

鼻 節 神 社 花渕浜字誰道

祭神:猿田彦

岩礁が続く沖合の船の安全な航行のために岬の突端に鎮座する神社である。延喜式神名帳にの「名神大社」として記載され、明治10年に鹽竈神社の摂社となる。境内には鼻節神社の奥の院ともいわれ、かつて沖合の岩礁に鎮座していた大根(おおね)明神の里の宮があり、夏にはアワビ祭りが執り行われる。

平成2(1990)年

4月1日

建治三年銘

古碑

代ヶ崎浜

字影田

町内に現存する最古の板碑。亡くなった父の霊を供養するために造立されたものである。表面上部に梵字による阿弥陀曼荼羅、下部に建治3年(1277年)の銘と願文が彫られている。周辺には正応2年(1289年)や元徳2年(1330年)の記年銘のある板碑があり、七ヶ浜における中世の仏教信仰の様子を知る貴重な資料である。

平成2(1990)年

4月1日

下 が り 松

代ヶ崎浜

字細田54-16

下がり松は道に迷うことが多かった道の目印として植えられたマツである。幹回り約2.1m、樹高約5.4mのマツで、垂れ下がるような枝ぶりからこのような愛称で呼ばれている。

平成2(1990)年

4月1日

「鰐鮫頭骨収納箱」

附鰐鮫頭骨

および釣針

境山2丁目

1-12

※歴史資料館寄託管理

漁師の父がアワビ獲りの際に鮫に襲われ亡くなり、その仇討ちを息子が成し遂げるという昔話に関連する資料である。資料は父を襲った鮫の頭骨、鮫を捕らえるために使った釣針、これらを収納する箱である。収納箱の蓋には儒学者の田邊希元・希績親子の選書による裏書きがある。前半は息子の功績を伝え、後半には収納箱を製作したいきさつが書かれている。この裏書きから安永3年(1774年)に7代藩主伊達重村が頭骨と釣針を実見し、子孫のために収納箱を作らせたことが分かる。

平成10(1998)年

8月1日

吉田浜獅子舞

吉田浜字宮前11-1

吉田神社

吉田浜地区に伝わる獅子舞で、明治時代初期に地元漁民が石巻市渡波方面から移入したといわれる。毎年、旧暦3月17日の吉田神社大禮祭で奉納され、その後は魔除けと大漁祈願などを願い、地区の家々で舞われる。演目は「前句」、「本唄い上げ」、「大漁の舞」、「勝利の舞」、「悪魔払いの舞」、「剣の舞」、「二頭舞」、「結びの舞」、「送り唄」で宮城県の獅子舞の特徴をよく伝えている。

昭和60(1985)年

3月1日

この件に関する問合せ

歴史資料館(電話:022-365-5567)